このままでは死ねない

Ⅴチューバーになりたいと思った。

それは架空のキャラクターになって、その私に

子供たちが、毒を吐く。

 

その毒を紐解き理解をする、のんびりしたキャラクターで

いつしか、現実へと導き、子供を救いたい。

 

漠然としかないんだけど、資格もない私が出来る事は

兎に角いてまえ!やんなきゃ意味ない。

 

 

凄い呑気なわがままな野良猫のキャラで

いつしか私が登場したら無責任に

悩みを紐解く実はババアで、実在する

実在は裁判も経験してる結構な修羅潜ってる人間で

絶対の経験に関しては自信ある。

 

死ぬまでに絶対やらなきゃいけない事と思って

今実際自分が生きるのにも大変なんだけどでも

そんな事言ってる暇はない。

やるしかない。

町田

北海道の十勝平野から飛行機乗って

東日本大震災の日引っ越して東京に移住した

 

息子は中野に住んでたのに

私、一目ぼれした町田に住む

 

暑いある日、町田の駅前に立つ

上空を厚木からの戦闘機が爆音で飛んで行った

その爆音を気にもせずに人々はデパートに吸い込まれていく

 

大学生も小学生もお婆さんも。

 

もう、それが生活の一部の様に何も驚かない

私は空を見上げて立ち止まった。

 

鈍感なんだ生き方が。

 

なんだろう、この町の人は、例えば

世田谷なんかで反対運動するような建築物が出来ても

まあ、いいか。

と許してしまうんじゃないかと感じた。

 

雑多な街、掴みどころもない、

友人が来ても特に観光地もない。

 

だけど、ゆったりと落ち着く飾らない街並み。

 

なんで一目ぼれしたんだろうかと考えても

思い出せないのだ。

 

吸い込まれるように物件屋に行って

部屋を決めた。

 

三回目の引っ越しで

ここで死んでもいいかなと思う部屋を見つけた。

 

もう。

 

町田から離れない人間なんだと

 

遠い雪国の町を記憶の中から存在を亡くしていく作業をしている。

 

で、

町田

 

なんで好きなんだろう。

 

息子埼玉に引っ越して家を買い住もうと言われたけど

え。

 

町田から離れるの困る

 

意味不明の存在感になってしまった。

今日もバイト先の商店街の野良猫の餌を買って

勝手につけた名前で呼び、まぁだ?って顔で待ってるその子に

「ねえ。なんで私ここに居るんだろうね、あんたと同じ」

 

って野良人間か。

 

 

依存

もう25年前だったでしょうか。

 

当時は結婚していて北海道に住んでいて

子供も小学校に入って本屋のバイトを始めた頃

駅前の本屋からバスに乗るときクーラの効いた

当時は最盛期だったのかホテルのロビーの様なパチンコ店

 

本屋のバイト仲間の子も店主も行ってたとか

主人だった人も結婚前から休日は殆ど居ない位パチンコ通いの人で

躊躇なく涼んでいこうかと軽い気持ちだった。

 

時々行っては数千円プレーし数百円増えたり減ったり

そんな感じで流れ的に休日も主人と一緒に連れて行って貰っていた。

 

そんな生活を10年ほど過ぎたある日

私の病気と主人の親と私の母親が末期がんと言うのが

ほぼ当時に起こった。。。

 

人間はうまく行ってるときは他人にも寛容ですが

自分の身に降りかかる困難の時は他人に大変冷酷になる人も

存在するのです。

 

主人の姉が実家依存であり、それまでは苦手ではあったけど

少し離れたところからお付き合いをしていた事で

そうそう諍いはなかったが、

主人の父親のガン宣告の時から一気にその不満を

私にぶつけてきた。

 

私が子宮筋腫で全摘し、その入院中に

乳がんだった事で主人が私の事も心配しなくてはいけない事を

許せなかったのだと思う、「あの人は仮病だよ」と

身内に噂を流していました。

 

付き添いをしたくないので仮病を使ったんだと言われ

何をどう説明してもい「あんたは実家に戻ればいいんだ」と

意味不明の言葉を投げられお手上げだった。

 

言い返せない自分が情けなかったし

その事態に庇いもしない主人に対しても怒りはあったが

当時は自分たちの親もまだ生きていましたので

抑えて生きていました。

 

自分は一人でキャリーを引っ張って

入院退院を何度も繰り返し、平気だよって

強がりを言いながら実際文句言われるくらいなら

孤独を選んでた自分も居た、

 

末期がんだった私の母はそんな私を見て号泣していた、

彼女も同時期に入院だったのでお互いに会えなかったのだ。

試されてるんだ、人間性を、と自分で口癖にしてた。

 

退院しまだ通院している際にも元気な顔をし

不死身な人なんだと笑われたりもした、

しかし後遺症からかパニック障害になり

心療内科にも通院するようになる。

 

ドクター曰く「人間は限度を超えそうになると一旦その感情を

引き出しに入れるんだよ、でもその引き出しは

自分の体が健康になって衰弱しないようになったら

突然開くんです。その時にパニック障害になるケースがある

一過性で理由もあるので自然治癒できると思う」

と言われた

 

主人も私の実家の親も末期を迎えた家族の為に

誰にも甘えることが出来ないどころか、

単身赴任の状況で、休日は主人だけが

親の付き添いにと姉からスケジュールを決められて居たので

私と息子は二人で7年間父不在の生活を送りました。

 

「あんな女と離婚しろ」と言う姉のメールに対し

そのメールを受け取り泣きながら私に見せた主人に

姉に抗議してくれ、出来ないなら離婚してくれと迫りました

 

どっちも出来ないと泣いている主人の背中を見て

この人たちの実家には私は絶対入らないと決意した。

 

そこで、自分のメンタルをどうしていこうかと悩み

何もかも忘れる為にパチンコ店に行くようになった。

 

ここなら文句も言わない、誰も私を知らない

何も話さなくていい

 

現実逃避の場としては本当に都合の良い場所だったのです。

 

 

その後、ストレスがあるとそこへ行っている生活が

当たり前のようになり、行けない日はどうしたらいいんだろうと

もはや、他の方法では解決できない自分になっていました。

 

アルコールに逃げる人、薬物、過食、買い物、

あらゆる依存はあります、単純にそれだけを批判できない。

 

今現在離婚し一人の生活になり現在に至るまでは

苦難があり、そのたびにリバウンドし依存を繰り返し

やっと、自分の立ち位置、自信、離婚した相手の

親族に対しての恐怖心など薄れていく中で

ギャンブル依存も消えて行ったのです。

 

全く行きたくない、街中にもパチンコ店は存在し

女の人でも入店の違和感もそうない筈なのに

通り過ぎても行かないのです。

 

ギャンブルの存在を否定もしません、

アルコール依存が起こるのでアルコールを否定するのは違う。

そういうのは愚問であって、「どうして依存した」のか

そこが全てなのです。

 

私は夫婦で生きていくうえでの

親と親族との関係性を病気が切っ掛けになり

何が最優先なのかを悩み苦しみ抜いた挙句

最下位であった自分を認めたくない

認めたくないから我慢して笑って暮し、結果

パニック障害になり、そこから逃げる為に今度は

ギャンブル依存になったのです。

 

弱さなのか、それともその依存が無かったら

もっと重い精神障害になったのかそれは分かりません。

逃げた事で狂わないで済んだのかもしれません。

 

現在は仕事も楽しく、貧乏でありますが

一人の生活も気楽に、東京での友人も数人できて、

パニック障害も起こりません。

 

若いときに北海道の田舎で

東京で一人暮らしをしたい、と漠然に考えていた

まさしくその生活が今現在。

 

困難な道ではありましたが

今は生きてて良かった、勇気を持って離婚して良かった

安定な生活の為に土下座してあの実家に入らなくて

本当に良かった。

 

克服は自分の精神分析だけです。

 

その為の書籍は山ほど読み漁りました。

ネットでも依存の人との悩み相談など

異常な自分を見つめる作業の20年間だったと思います。

 

依存に苦しむ人を他人は救えません。

自己が己の異常を確認し、その異常を

繰り返しても負けるもんかと戦い続ける事

その為の癒しの相手として友人との時間だったり

読書だの、スポーツだの自分の元々の趣味を

取り戻していく事で「すり替え」が出来るのです。

 

超えたときに清々しい自分の心を見ることができます。

 

深呼吸が汚れていないという事実